2009年06月29日

量子力学の完成以降の発展と応用

量子力学の定式化が行われるようになって、現代物理学では量子力学とアインシュタインの相対性理論が最も一般的な物理学の基礎理論であると考えられるようになった。その後、電磁相互作用、重力相互作用を量子力学に組み込むことが求められるようになった。それぞれ、特殊相対性理論や一般相対性理論と量子力学の橋渡しをしてひとつの定式化された理論を目指すことに相当する。

1950年代にファインマン、ダイソン、シュウィンガー、朝永振一郎らによって量子電磁力学が構築された。量子電磁力学(りょうしでんじりきがく、Quantum electrodynamics; QED)とは、電子を始めとする荷電粒子間の電磁相互作用を量子論的に記述する理論である。一方、量子力学と一般相対性理論を合わせた理論(量子重力理論)は、いまだ完成されていない。

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さらに素粒子物理学の発展によって従来考えられていなかった電磁力や重力以外の基本相互作用が認められるようになった。量子色力学が研究されるようになり、1960年代初頭から始まる。今日知られる様な理論はポリツァー、グロス、ウィルチェックらにより1975年に構築された。すべての基本相互作用を含む大統一理論の探求がおこなわれている。

これまでに、シュウィンガー、ヒッグス、ゴールドストーンらと他大勢の先駆的研究に基づき、グラショー、ワインバーグ、アブドゥス・サラムらは電磁気力と弱い力が単一の電弱力で表されることを独立に証明している(電弱理論)。

量子力学の成立によって物性物理学の発展に基づいた現代の工学の発展は可能になった。今日のIT社会ないし情報化社会と呼ばれる状況を成立させている電子工学も、半導体技術などが量子力学をその基盤としている。量子力学はまた化学反応の現代的な記述を可能にし、量子化学の分野が発展した。

2009年06月12日

神経科学(しんけいかがく)

神経科学(しんけいかがく、Neuroscience)とは、神経系に関する研究を行う自然科学の一分野である。研究の対象として、神経系の構造、機能、発達、遺伝学、生化学、生理学、薬理学および病理学などがある。従来、この分野は生物学の一部門とみなされていた。しかし、近年になって生物学のみならず心理学、コンピュータ科学、統計学、物理学、医学など多様な学問分野からの注目を集めるようになった。神経科学者の用いる研究手法は近年大幅に増加しており、単一の神経細胞やそれらを構成する物質の組成・動態を調べるものから、思考中の脳内の活動を可視化する技術まで多岐に渡る。

神経科学は脳と心の研究の最先端に位置する。神経系の研究は、人間がどのように外界を知覚し、またそれと相互作用するのかを理解するための基盤となりつつある。
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神経系は神経細胞のネットワークとそれをサポートする細胞群(グリア細胞など)から成る。神経細胞はその集合として機能的な回路を形成しており、個々の回路は個体の行動やふるまいに必要な特定の機能を担うと考えられている。このため、神経科学は様々な異なるレベルでの研究が可能であり、分子レベルから細胞、システム、また認知機能のレベルまで多様な研究が行われている。


分子レベルにおける神経科学の研究対象には、個々の細胞がどのように分子シグナルを発現しまた反応するか、あるいはどのような分子シグナルによって軸索がその複雑な接続パターンを形成するか、などがある。このレベルでは、分子生物学や遺伝学に由来する研究手法が応用され、神経細胞がどのように発達し死んでいくか、遺伝子の発現がどのように細胞の生物的な機能に影響するのかが調べられている。

細胞レベルにおいては、その基本的な研究対象として神経細胞が生理学的また電気化学的にどのように信号処理を行っているのか、そのメカニズムを探ることが挙げられる。細胞内の樹状突起や細胞体、軸索における信号処理や、また神経伝達物質や電気的なチャネルを通じて他の細胞から伝わった信号が細胞内でどのように処理されるのかについての研究が行われている。

2009年06月07日

1セント硬貨 (アメリカ合衆国)

セント(英語:Cent)として知られるアメリカ合衆国1セント硬貨は、アメリカ合衆国内で流通する通貨。1アメリカドルの100分の1の価値と同等である。硬貨の表側にはアメリカ合衆国第16代大統領、エイブラハム・リンカーンの肖像が、彼の生誕100周年にあたる1909年の発行時より描かれている。リンカーンの生誕150周年にあたる1959年以来、裏側にはワシントンD.C.に位置するリンカーン記念館がデザインされるようになった。硬貨は19.05ミリメートル(0.75インチ)の直径と1.55ミリメートル(0.061インチ)の厚さで鋳造されている。

1セント硬貨はよく「ペニー(penny)」と称されるが、アメリカ合衆国造幣局が定めている公式な名称は「セント」である。

第二次世界大戦もピークを迎えた1943年、戦争で消費する銅の需要のために、亜鉛でコーティングされた鋼鉄を用いて造られていたセント硬貨が短期間鋳造されていた。数少ない1943年版の銅製のセント(アメリカ合衆国造幣局によれば40枚と報告されている)硬貨は、貯蔵庫に残っていた1942年用のプランシェットを用いて鋳造された。1943年に続いて、当時は回収された薬莢を使用し硬貨が鋳造工程へと進んだため、硬貨の仕上がりに真鍮の条痕がついたり、硬貨が黒みがかっていたりすることは、他の年よりもよく見られた。

1970年初頭、銅の価値が1セント硬貨に含まれる銅の含有量のほとんどを超える地点にまで達したため、造幣局はアルミニウムのほか青銅を混在させた鉄の合金など、硬貨に使用するための代用となる金属をテストすることになった。このときセントの材料にアルミニウムを使用することが決定され、150万枚を超える硬貨が鋳造されて発行を待ったが、最終的に流通へは至らなかった。現在これらは違法な硬貨とされ、アメリカ合衆国シークレットサービスによる没収の対象となるが、依然として少量のアルミニウム・セントが収集家の手中にあると信じられている。現存のうち1枚はワシントンD.C.にあるスミソニアン博物館に所蔵されている。

セント硬貨の金属構成は1982年、再び額面に含まれる銅の価格が1セントを超える位置まで上昇し始めたため変更された。一部の1982年の硬貨には97.5パーセントの亜鉛が使用されているが、その他は95パーセントの銅が使われている。その後銅の価格は1セント硬貨を鋳造しても採算が取れるレベルにまで落ち着いた。

2007年5月26日時点で、銅と亜鉛の価格は1ポンド当たりそれぞれ3.39ドルと1.67ドルである。こうした価格において、1982年以前に鋳造された銅製のセント硬貨は、2.267セント分の価値がある量の銅を含んでおり、溶かして売却すれば利益が得られることから格好の標的となった。しかし、こうした悪質な期待に反して、合衆国造幣局は2006年12月14日に新たな規制を履行した。これはセント硬貨やニッケル硬貨を溶かしたりする行為に罪を負わせ、硬貨の輸出に制限をかけるものであった。この規制に違反した行為を行った者は、1万ドルの罰金や5年以下の禁固刑に処せられる。
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現在鋳造されている、銅メッキされた亜鉛を用いて造られる1セント硬貨は、金属価値に換算しておよそ0.943セント(変動あり)に値する。しかし、硬貨の鋳造には1枚当たり約0.6セントの費用がかかる。亜鉛の価格が急激に上昇した折には、合衆国造幣局が他の代用金属を再び探さなければならなくなる。しかし、造幣局が鋳造し流通させる通貨単位や、硬貨の含有量を決定づけるのは合衆国議会である。造幣局は議会が命じる硬貨のみを鋳造するため、通貨単位を変更したり廃止したりする権限を持ってはいない。議会や大統領の署名で制定される法律によって、廃止等を行うよう指示されたならば、アメリカ合衆国財務省は再びセント硬貨の変更や段階的な廃止を検討するだろうという指摘がある。これは1セント硬貨を廃止しようという声や、それに関連した法案が挙がっていることに関係するものである(Efforts to eliminate the penny in the United States)。現在は硬貨の需要もあり連邦準備銀行もそうした需要に合うような目録の作成を求めているため、造幣局は1セント硬貨の鋳造を続けている。

青銅・銅・亜鉛のそれぞれを用いて鋳造されたセント硬貨は、その違いを耳で聞くことができる。硬貨を指で連続して弾いてみると、主に銅製のセント硬貨は12キロヘルツの音で音が鳴り響くが、亜鉛が多く含まれるセント硬貨は音が響かない。

2009年04月24日

具現化したブラック・セミノール

1800年以降に具現化したブラック・セミノールの文化は、アフリカ、インディアン、スペイン、そして奴隷の伝統のダイナミックな混合である。インディアンの伝統によって、マルーンはセミノールの衣服を着用し、クンティ[4]や植物の根を消費し、乳鉢でトウモロコシをすりつぶして作るペースト、ソフキー(sofkee)を作った。

しかし、インディアンと離れて生活したマルーンは、彼ら独自のアフリカ系アメリカ文化を発展させた。ブラック・セミノールには、大農園から継続されたキリスト教を融合した様式に向かう傾向があった。結婚を祝福するジャンピン・ザ・ブルーム(jumpin' the broom)のような文化的な習慣は、大農園から生まれた。その他の、黒人の町の名前に使われるような習慣は、確実にアフリカの影響を受けている。
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言語は、特にブラック・セミノールの異なった文化を示している。アフロ・セミノール語は、サウスカロライナとジョージア州の海岸に沿った群島の方言である、ガラ語(Gullah)と強く関連している。ガラ語と同じく、アフロ・セミノール語は、バンツー語やその他のアフリカ言語と同様に、スペイン語や英語、マスコギ語族から単語を取り入れたクレオール語である。

セミノール戦争における黒人
アメリカ合衆国建国の時から、フロリダの武装した黒人共同体の存在は、アメリカ人の奴隷所有者にとって主な心配事であった。奴隷所有者たちは、アメリカ合衆国憲法の採用の後で批准された最初の条約であるニューヨーク条約 (1790年)で、フロリダの黒人の逃亡者の返還を望んだ[6]。アンドリュー・ジャクソン総督は、1816年、ブラック・セミノールの要塞、ニグロ・フォートへの攻撃を指揮し、フロリダのマルーンの共同体を標的にした。マルーンの共同体を破壊することは、それに続く第一次セミノール戦争(1817年〜1818年)での、ジャクソン総督の主な目的のひとつだった。

第二次セミノール戦争(1835年〜1842年)では、ブラック・セミノールとアメリカ合衆国の間の緊張が高まり、黒人とセミノールの同盟の歴史的なピークを迎える。この戦争は、インディアン移住の政策の下、フロリダの4000人のセミノール・インディアンと800人のブラック・セミノールの一部を、西部のインディアン準州に移住させようという、アメリカ合衆国の取り組みから生じた。この戦争以前に、少なくとも100人のブラック・セミノールについては、逃亡奴隷として、白人市民から返還を要求されていた。これら100名を奴隷にする直接的な試みを恐れ、また、さらに多くの共同体のメンバーを奴隷にする試みを予期して、ブラック・セミノールらは強制移住に対して強く反発した。戦前の協議では、彼らはオシオーラ(Osceola)によって導かれたもっとも好戦的なセミノールの一派の支持に回った。戦争が勃発した後には、ジョン・シーザー、エイブラム、ジョン・ホースといった個人の黒人指導者が重要な役割を担った[8]。闘争でインディアンを支援することに加えて、ブラック・セミノールは、開戦直後に少なくとも385の大農園の奴隷の反乱を共謀した。奴隷たちは、1835年12月25日から1836年の夏を通じて、インディアンとマルーンによる21の砂糖の大農園の破壊活動に加わった。これを、アメリカ合衆国の歴史上、最大の奴隷反乱と記述する学者もいる

2009年04月06日

ブズーキ

ブズーキ(Bouzouki、μπουζούκι)は現代のギリシャ音楽で中心となる楽器であり、またセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナといったバルカン半島の民族音楽でも使用される。さらにアイルランド音楽でも使用される。洋梨を半分に割った形のボディと長いネックを備えた弦楽器である。リュート属で、マンドリンに似ている。ピックで演奏され、鋭い金属的な音が特徴的。

種類 [編集]
ギリシャのブズーキは、当初は弦が3対(6本)だったが、20世紀中期頃に4対(8本)の弦のタイプも登場した。

アイルランド伝統音楽のバンド、スウィニーズ・メンに在籍していたジョニー・モイニハンによってアイルランド伝統音楽に取り入れられ、ドーナル・ラニーによって、ギターのようなフラットバックを持つ新しいブズーキが開発された。この形状の楽器を特に、アイリッシュ・ブズーキと俗称する。ギターのボディを持ったブズーキもアイルランド音楽では使われている。

大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう


2009年03月22日

メーカー間のコピー

プラモデルにおいては、部品の分割方法や面の表現、対象の立体としての解釈など設計段階で開発者の個性が強く表れる。

異なるメーカーが同一の物体を題材にした場合に、他のメーカーの商品をコピーしたと言われる場合が有るが、これは前述の分割方法や、成形されたランナー上の部品配列などにおいて、全く同一ではないが他社の既存製品に酷似した商品のことである。日本のプラモデル黎明期には、プラモ先進国であるアメリカやイギリスのキットがよくコピーされたが、部品配列は異なる物が多く、また原型に存在しないギミックが追加された物、逆に省略された物も多い。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

ただし、プラモデルの世界においては他の工業製品と同じく、パーツが他社にOEM供給されて別パッケージで発売されることがあり、これがコピー品と間違われやすい。

モデラーの言う「コピー品」では、他のジャンルのコピーと違い、コピー元キットの問題点として模型専門誌やユーザーから指摘された部分が修正されていたり、コピー元のメーカーが発売していない派生型が発売されたりすることが多い(これによってコピーではないと主張すると思われる)が、その大部分は精密度においてオリジナルに劣っている。ここでは具体的な例としてアカデミー(韓国)の商品で解説する。

1/72 A-10 1/48F-16
ハセガワのコピーだが、開発時期の古い元キットの凸モールドが凹モールドへの変更(A-10)や細かい部品の分割手法の見直しによる同一パッケージで複数の形式に対応や各種搭載品の追加といった修正が行われている(F-16)。
イタレリから各社の1/72 A-10のキットの抱える問題点を克服した物が発売された。
タミヤが1/48でF-16 Block25以降の機体の決定版と言えるキットを発売したため、今後他のメーカーのA型とC型で住み分けが進むのでは?と言われている。
1/35 M113・M60・メルカバ・センチュリオン
基本形はタミヤのコピーと言われているが、大量のアクセサリ追加やタミヤからは発売されていないバリエーション展開(改良型(M113)や発展型の車輌(メルカバ)、イスラエル国防軍仕様(M113、M60)など)が成されており、例えばメルカバIIIなどは転輪パーツ以外はオリジナルとなっており、少なくともユーザーにとっては、以前は高価な社外のレジンキットやスクラッチが必要であった題材が比較的に低コストで制作できるようになった恩恵の方が大きい(もちろん、だからと言って決して違法コピーが許される訳では無いのだが)。なおセンチュリオンは日本には輸入されていないが、生産停止になったタミヤ製に代わって欧米市場ではポピュラーな製品となってしまっている。
これらの車輌についてはイタレリ製品(もとエッシー商品含む)もタミヤのコピーでは無いかと言われているものが在るが、少なくとも1/35キットでは当のタミヤが輸入代理店を務めているためか特に問題になっていない。しかし1/72の元エッシー社製戦車キットのシリーズ(かつてはハセガワやグンゼ等が代理店)にはタミヤ製品の縮小コピーが多いため、プロタージャパンが代理店となり、タミヤから承認を受けたキットのみ輸入していた。
センチュリオンはAFVCLUBが2007年に発売した製品シリーズを決定版として押す声が市場で上がっており、今後各種改造用社外パーツとともに市場から駆逐されるのではと言われている。
1/48 Su-27
アカデミーの商品が金型の製作を依頼したトランペッター(現地語表記:小号手、正徳福とミニホビーモデルはトランペッターの輸出専用ブランド名)にコピーされたと言われている物。アカデミーの元設計が持つ問題点をそのまま引き継いだ部分や、工作精度の問題からコピー元のキットに劣ると言われている。これらは部品配置までソックリである。正徳福名義では、バリエーションとしてSu-35やSu-30も発売されているが追加部品も考証面で難があり、オリジナルにそのまま流用するには問題がある。
その後トランペッターは、完全オリジナルの1/32のSu-27を発売した。こちらは1/48キットで問題があるとされた部分が正しく設計されていたが、反面古い図面を元に下らしく風防形状などが実機とは異なっていた。1/48の新設計は行われていないが2007年中を目標に1/72の発売がアナウンスされた。
1/35 M2ブラッドリー歩兵戦闘車
アカデミーの他の企業が製造したキットを模型としての改良や発展型などの部品の追加を行わず単純にコピーした(デカール変更や説明書のローカライズはされている)もので、田宮の発行する書籍で名指しで批判された。
1/72 F-8
ハセガワの1/48が発売された直後に発売され、部品の分割などが似ているためハセガワの縮小コピーではないかと言われているキットだが、両者の比較しての批判などは2008年2月末現在行われていない。またアカデミー側はチャンスボート社から資料提供を受けていることを公表している。

プラモデルと有機溶剤 [編集]
プラモデルはスチロール樹脂を素材としているため、接着・塗装には有機溶剤を含む接着剤や塗料が不可欠であり、この事がホビーとしてのプラモデル普及の最大の障害となっている。特にシンナー遊びが社会問題になった1970年代以降はメーカーも対応に迫られ、水で希釈や筆洗いができて臭いや害性も少ない水性アクリル塗料が登場する事になった。ただし、実際にはアクリル塗料で希釈や筆洗いには、他の塗料の場合と同じで専用の溶剤を使用することが好ましい。


近年はプラモデル購買層の年少化・高齢化に対応してさらなる取り組みがなされており、スナップフィットや多色成型により接着や塗装をしなくても十分な出来栄えの完成品が得られる製品の開発、無害なリモネンを主成分とする接着剤や模型用瞬間接着剤の登場、コピックやアクリルガッシュなどの画材の利用など、有機溶剤を含む素材を一切用いずにプラモデル製作が楽しめる環境が整いつつある。

2009年03月07日

カサブランカ (護衛空母)

カサブランカ (USS Casablanca, ACV/CVE-55) は、アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級航空母艦の1番艦。艦名はモロッコのカサブランカに因んで命名された。

艦歴
当初はアミール (Ameer, AVG-55) の艦名で、1942年8月20日に ACV-55 (補助空母)に艦種変更され、1943年1月23日にアラゾン・ベイ(Alazon Bay)に改名された。その後1943年4月3日にカサブランカに改名され、1943年7月15日に CVE-55 (護衛空母)へと艦種変更された。カサブランカは1943年4月5日に海時委員会の契約下ワシントン州バンクーバーのカイザー造船所で起工する。1943年7月8日にエレノア・ルーズベルトによって進水、海軍に引き渡され、同日W・W・ギャラウェイ艦長の指揮下就役する。その後カサブランカは太平洋艦隊に配属された。
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

カサブランカはファンデフカ海峡で訓練艦として護衛空母の乗員を1944年8月まで訓練し、8月24日にサンフランシスコで兵員、航空機、ガソリンを積み込みパプアニューギニアのマヌス島へ向かう。10月8日にシアトルに帰還し、ピュージェット湾で再び訓練任務を再開し1945年1月22日まで行った後、サンディエゴで修理を行う。

3月13日に出港、真珠湾に向かったカサブランカはその後兵員と航空機をグアム西岸に輸送する。5月12日までサマール島、マヌス島、パラオに向けて輸送任務に従事し、その後オーバーホールのため帰還する。6月24日に兵員を輸送して真珠湾に到着し、夏の間中西海岸から真珠湾及びグアムへ兵員を輸送した。8月にサイパンで空母として短期間訓練を行った後、カサブランカは帰還兵を乗せサンフランシスコへ向かい9月24日に到着する。その後も太平洋艦隊で西海岸から真珠湾に向けての兵員輸送を9月、10月、11月まで行う。カサブランカは真珠湾、エスピリトゥサント島、ヌメアから兵員を輸送した。最後の兵員輸送は1945年12月8日から1946年1月16日にかけて行われたサンフランシスコから横浜に向けての物であった。カサブランカは1月23日にバージニア州ノーフォークに向けてサンフランシスコを出航し、2月10日に到着した。同地で6月10日に退役し、1947年4月23日にスクラップとして売却された。

2009年02月18日

Under The Moon

自身の魔力が弱まった事実を受け、魔界を司る現魔王は「世代交代」を宣言した。代々、子孫が受け継いできたその役目だったが、彼の一人娘であるアーシェは弱い魔力しか持たないためにその資格を得られない。だが、交代をせねば魔界の秩序が乱れてしまう。魔王が探し出した「魔王候補」を魔界へ招聘しようとしたそのとき、魔界の城が魔王の座を狙うもの達に襲われ、アーシェは自分に仕える使い魔のカイルと共に城から脱出、森へ逃げ出す。しかし不意に「魔界の外に通じる穴」に落ちてしまい、人間界に迷い込んでしまう。

見知らぬ建物の上に降り立ったアーシェは、偶然にも魔王候補の「レニ」と「セイジュ」という、アーシェ同様魔界から人間界にやってきた双子の男たちと知り合う。魔王の一大事を救うため、ふたりに「魔界に戻って」と願うアーシェだったが、レニもセイジュも頑として首を縦に振らない。さらに時を同じく人間界では悪魔狩りが始まり、運悪く魔界と人間界をつなぐ門が閉ざされてしまい、魔王の一大事だというのにアーシェは帰れなくなってしまった。

「このままじゃ帰れない。パパの役に立ちたい。だから・・・」

アーシェは双子の暮らすマンションに無理矢理住み着き、そしてふたりと同じ学校に通いながら時を待つ。次に門が開いたら、レニとセイジュを必ず魔界へと連れて帰ると決意して。

アーシェ
声:風音 / 櫻井浩美
本作の主人公。かなりの美少女。魔力が低く自分が魔王になれないことに引け目を感じている。周りに男性が居ない環境で育ってきたために異性に対して免疫がない。純粋無垢な性格だが自分の意志はちゃんと持っていて、言いたい事は言うタイプ。
レニ
声:杉崎和哉 / 谷山紀章
魔王候補の双子の兄。漆黒の髪に青い瞳を持つ。容姿はいいためもてるが女性に対しての態度はかなり冷たい。アーシェに対しても冷たく当たるが時折優しさも見せる。魔王の座には興味を示さない。
セイジュ
声:浅野要二 / 遊佐浩二
魔王候補の双子の弟。青味がかった黒髪に緑の瞳を持つ。兄同様女性にもてるが一人に執着はしない。レニほど冷淡な印象はないものの、逆に普段の優しさの中に冷たさが垣間見える。レニと同じく、魔王の座には興味がない。
カイル
声:萩道彦 / 猫カイル:吉田愛理
アーシェの使い魔。本来は魔王の使い魔なのだが、頼み込んでアーシェ付きにしてもらった。魔界ではケット・シーとして羽の生えた猫のような姿をしていた。しかし人間界に来てからは事情により本来の銀髪の青年の姿をしている。性格はドジで慌て者。不慣れな世界に戸惑っているアーシェを常に温かく見守っている。趣味は料理。
天宮 瀬名(あまみや せな)
声:空野太陽 / 岸尾だいすけ
アーシェのクラスメイト。金色に近い茶髪に琥珀色の瞳。軽い性格で女の子が好きで誰にでも声をかけている。始めて会った日からアーシェを気に入りよく傍にいるため、レニやセイジュにはよく思われていない。
???
声:安芸怜須ケン / 浜田賢二
アーシェが人間界で最初に出会った人物。黒い髪と赤い瞳を持つ。包容力のある豪快かつ大人な男性。アーシェの危機には助けてくれるが、その言動や正体は謎。名前は無いと言う為、アーシェ自らゼロと名前を付ける。
ユナン
声:プログレス
『Under The Moon 〜つきいろ絵本〜』に登場。悪魔だが金に近い茶色の髪。アーシェを『殺しに来た』らしいが?
セレン ケース ルージュ データ スワップ スーパー オルグ マスイブ 碁の杯 ズッキーニ プルト ディレ ポーリア デーリー タイプ ドラゴン パスヒ バットレス ギムレ ピート トウヨ リッドカ コリー いちい パネル メタセ バンダ リファレ ブラーフ ドリティ かみいそ ひけつ ノクロス オブジェキ ヒットソ ピア ポール フルスケ ハネウェル バウチ ロスペクト レッサー アクセス ソンク ばいせん シーランド フリース しぶし レシピ ハイビ

2009年01月28日

織田信長の重臣明智光秀が謀反を起こし

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長の重臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させた事変。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう

光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、現在でも定説が確立されていない。さらには、他の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている
天正10年(1582年)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月に武田家を滅ぼした。関東の後北条氏、東北の伊達氏は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏となった。

織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失った。また上杉氏は謙信亡き後、後継争いである御館の乱とその後の相次ぐ家臣の反逆によって疲弊しており、かつて関東・越後から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は勢いを弱めていた。四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた織田信孝が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢であった。九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。

安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。その一方で、多くの兵力を派遣していたため信長周辺の軍勢は手薄であり、武田家滅亡後は天下統一目前という開放的な雰囲気で、畿内では信長、家康とも小勢で移動していた。[1]そこを信長の近畿管区軍というべき光秀軍が襲撃したのである。

光秀は、武田攻めから帰還したのち、長年武田氏と戦って労あった徳川家康の接待役を5月15日より務めた。しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に羽柴秀吉から応援の要請が届いたためである。26日にはいまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、句の解釈は種々ある。

一方、信長は29日に秀吉の応援に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。

本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど[2]、防御面にも優れた信長宿舎としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている。[3]。

同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった(光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城より3000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言(「敵は本能寺にあり」は江戸時代初期の『川角太閤記』が初出だが、『川角太閤記』には明智軍の参加者も協力したともいわれる[4])して、襲撃を明らかにした。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、当時、重職以外の足軽や統率の下級武士は京都本能寺にいる徳川家康を討つものと信じていた、とされている。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍(光秀はこの時、京都にも入っておらず、本能寺到着は9時。指揮した者が不明の謎の軍団とする説もある)は本能寺を完全に包囲した。

本能寺跡物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告された。信長は「是非に及ばず」[5]と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、女衆に逃げるよう指示して、奥に篭り、信長の小姓・森蘭丸に火を放たせ、自刃したと言われる(信長の家臣太田牛一の著作『信長公記』による経過。本能寺から避難した女衆に取材したとある)。信長の遺骸は発見されなかった。

信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺には堀と土居があり、この説は疑問である。
また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある。[6]

一方、本能寺から200mの近辺に教会のあったルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

明智謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとしたが、既に事態は決したから逃げるように側近に諭された。しかし信忠は光秀軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに向かない妙覚寺を離れた。実際は包囲は十分でなく、織田長益など逃げおおせており、歴史を変えるほどの判断の誤りであった。そして京都の行政担当者である村井貞勝らと共に二条御所(二条新造御所)に移った。信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒す猛将ぶりを見せ、少数で猛烈な抵抗を見せて三度も光秀軍を退却させた。時間の経過とともに京都市内に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけ、反乱の去就が危うくなってきた。光秀軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢でねらい打ち、側近を殆ど倒した。こうして信忠は自刃し、二条御所は落城した。(『信長公記』、『當代記』、[4])

妙覚寺には、信忠と共に、信長の弟・織田長益(のちの織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、落城前に逃げ出した(『三河物語』)。そして安土城を経て岐阜へと逃れ、無事であった。信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 6月2日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。

また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣ヤスケも戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中では、ヤスケが信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。

変の要因
江戸時代を通じて、信長からの度重なるイジメが原因とする「怨恨説」が根拠のない創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはなかった。

こうした理解は、映画やドラマなどでも多く取り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできた。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせた。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(仏教弾圧など)への反動(反革命)とする説も多い。

本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、これによれば信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変三ヶ月前の茶会で宝をおく床の間に信長の書を架けるなど心服している様子がある。このため怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。しかし、それらの黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはない。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来はドラマや旧領丹波など一部の地域では遺徳を偲んでいる事などの影響か誠実なイメージがある。しかし、教養の高い文化人で線が細いといわれる光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな戦国武将としての姿が見える。[6]

野望説
戦国史の権威であった高柳光壽が主張した、「天下が欲しかった光秀の単独犯行」とする説[7]。高柳は、怨恨説がいずれも後年の創作に依拠したものと看破し、史実とは認められないとした。また、ルイス・フロイス『日本史』の記述などから、戦国武将として合理的な性格の光秀と信長との相性も良かったのだろうと主張した。現在、藤本正行、鈴木眞哉らがその主な後継論者となっている(『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』 洋泉社、2006年)。

2009年01月20日

動物や植物などの一連の存在

動物や植物などの一連の存在のことを総称して生物(せいぶつ)または生き物(いきもの)と呼ぶ。

地球上の全ての生物の共通の祖先があり(原始生命体・共通祖先)、その子孫達が増殖し複製するにつれ遺伝子に様々な変異が生じることで進化がおきたとされている。結果、バクテリアからヒトにいたる生物多様性が生まれ、お互いの存在や地球環境に依存しながら、互いに複雑な関係で結ばれる生物圏を形成するにいたっている。そのことをガイアとも呼ぶものもある。

生物(なまもの)と読むと、加熱調理などをしていない食品のことを指す。

生物を定義するのは難しい。普通の言葉では、生物とは生きているものであり、生きているとは生命があることであり、といった、言い換えしかできないからである。現在、我々が生き物と見做して知り得ているものが、生き物全てである保証はない。

生物が無生物から区別される一般的な特徴として、生物は、自己増殖能力、エネルギー変換能力、恒常性(ホメオスタシス)維持能力という3つの能力をもっている。

生物の個体は何らかの形の自己複製によりその祖先(親)から誕生し、ほとんどは恒常性の破綻とともに死を迎える。その間の時間は、生物は外部から物質を取り入れ、体内で化学変化させ、生じるエネルギーで自らの体の状態を一定に維持し、あるいは発展させ、不用な物質を外に捨てる。この誕生と死の間のエネルギーを変換しながら活動している状態が生きているということである。

つまり地球上の生物で言えば、タンパク質からなる酵素を中心とする代謝の働きと、核酸からなる遺伝子による遺伝の働きが、生物が生物であることを維持するためのしくみであると言える。

現在の地球上の生物に限って言えば、最も明確に生物を定義する特徴は、細胞から成り立っているということである。細胞は先述の生物の定義に於いて、生物と見なせる最小の単位である。

生物と非生物の境界領域にウイルスやリケッチアがある。両者共に他種の生きた細胞の存在なしには何もできないが、適当な細胞の存在下では一定の活動を行い、自己複製を行って数を増やし、他の細胞へと侵入することができる。それは明らかに生物である細菌類の病原体の振る舞いと変わらなく見える。構造的に細胞からなるリケッチアは生物に入れられる例が多いが、リケッチアも単独では自己増殖能力がないため、境界領域においてはこの3つの能力を基準にした厳密な線引きは難しい。細胞の構造を持たず、自己増殖能力にかかわる構造を自らの中に持たないことから、ウイルスは生物ではないと見なす判断が慣習的には多い。ただし、その存在の起源に生物が関わった可能性は高く、生物に無関係とは考えられない。

生物の分類
生物の特徴の一つは、それぞれの個体が種と呼ばれるグループを形成していることである。種の違いを認識し学名をつけるのが分類という作業である。現在分類されている種だけで200万といわれるが、実際にはこの数倍の種があるともいわれている。分類は何段階かの範疇に従い、最も大きな範疇を界と呼ぶ。歴史的に最も古くは生物は植物と動物からなるとした二界説(植物界、動物界)があり、その後の生物観の進展とともに、三界説、五界説、八界説などが登場した。現在は一般に五界説が受け入れられており、生物全体をモネラ界(原核生物を含む)、原生生物界、植物界、菌界、動物界に分類している。また、分子生物学の見地から、生物全体を真正細菌、真核生物、古細菌の三ドメイン(界の上位に位置するタクソン)に分ける方法も受け入れられてきている。

生物を成り立たせる生体物質
水、タンパク質、脂質、炭水化物、 核酸は生物の主要な構成成分である。

生きているという状態は、無数の化学反応の総和であるという見方もできる。これら化学反応がおこる場を提供しているのが水である。生物は水の特殊な物性に多くの事を依存しており、極めて重要でかつ主要な構成成分である。

生物の複雑さを象徴する物質の一つがタンパク質である。タンパク質は20種類のアミノ酸が数十から数百個結合したものだが、その順列組み合わせによりその種類は何千万種類にものぼる。あるタンパク質は、化学反応を触媒する酵素として働き、あるものは生物の構造を支える骨格として働くというように、様々な働きをしている。

ロバート・フックがコルクを顕微鏡観察して見出した小さな区画に小部屋(cell=細胞)と名付けたように、細胞とはある区画化された空間であり、外界から隔離することは生物を成り立たせる重要な要件である。この区画をしているのが細胞膜であり、脂質がその主要な成分である。脂質はエネルギーを貯蔵するのによい物質でもある。

生物は区画された空間ではあるが、完全に外界から遮断されているわけではない。外部からエネルギーを取り入れ内部で消費し、外部にエントロピーを逃がす散逸構造と呼ばれる仕組みになっている。生物間でのエネルギーの流通に炭水化物は重要であり、主に植物が光合成によって生産している。

ドーキンスの「利己的な遺伝子」に即していえば、たまたま自己複製する分子が存在し、それを継続的に支える環境が生まれた結果、生物が誕生したともいえる。核酸は遺伝子の実体だが、核酸が相補鎖を形成するという性質が生物の大事な本質である。

生物の歴史
137億年前 - 宇宙の誕生
46億年前 - 地球、太陽系の誕生
40億年前 - 最初の生物出現
38億年前 - 最後の共通祖先:古細菌と真正細菌の出現
35億年前 - 最古の化石:35億年前、西部ノースポール
30億年前 - 光合成生物出現
21億年前 - 真核生物出現:直径約2cmのコイル状の化石
12億年前 - 多細胞生物出現
6億年前 - カンブリア爆発 (バージェス動物群)
5億年前 - 魚類出現、植物と節足動物の上陸
4億年前 - 両生類(イクチオステガ等)の上陸
3億年前 - 恐竜時代の始まり
2億年前 - 哺乳類、鳥類 出現
6500万年前 - 恐竜絶滅
30万年前 - ホモ・サピエンスの分化

地球外生命
地球以外に生命が発見された事例は記録されていない。一方、地球と同様の生物や、あるいは異なった性質の生物が地球以外に存在する可能性も否定されていない。太陽系においても、火星には生命が存在する可能性が指摘されている。少なくとも過去においては生命に適した環境が存在していたと考えられている[要出典]。現在でも液体の水と熱源がまだ残っていれば、一部の古細菌(メタン菌)の生存に十分な条件が整っているとされ、水や熱源の探査は火星の探査計画でしばしば行われている。太陽系外惑星の観測は、主に星震などの観測が行われているが、スペクトル観測も少しずつ行われるようになってきている。2007年に発見されたグリーゼ581cに生物が生存可能な環境の存在が期待されたことがある。2008年現在、木星型惑星だけでなく地球型惑星の観測成果も少しずつあがってきている。
逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

有機物以外を構成要素とする生物も想定される。このような仮想理論は「代わりの生化学」と呼ばれている。比較的頻繁に言及されるのが、炭素に代わってケイ素を中心とする代謝系を持つ生物(ケイ素生物)である。SFの世界では、ガスから成る生物や電磁波から成る生物などが登場する。他に純粋知性、精神あるいは物質によらない意識が登場するが、現在の科学では、物質的な実体に依拠しない意識は確認されていない。